これでロシアにくるのも4回目だ。3年連続4回目。どこかの高校が全国大会に出場した回数を誇るように、僕もロシア行きの回数を自慢するというわけではない。回数で勝負する類いではないのは明らかだから。
今成田発モスクワ行きの機内でこの文章を書いているのだけど、書こうという押さえきれない意志がわき上がってきたからである。毎回国際線に搭乗すると、なぜか文章を書く事へと駆られる。別に外国に行くということを自慢したい訳ではない。飛行機に乗り、外国との境目に宙ぶらりんになっているときに、僕は必死に自身を整理しようとするらしい。旅に出る前に荷物を鞄に詰めるように、自身の過去の断片をどこかへ詰め込むのだ。たとえそれが急ごしらえのものであろうと、忘れ物をしようと、全然そんなことを気にせずに断片を詰め込み続ける。そして、何らかの形として掃き出したいがために、こうして文字にしているのだ。
昨年の8月にロシアに来た際も、ちょうど今回と同じように機内で、自分とロシアの関わりを整理した。今自分が向かおうとしている国が自身にとってどういう存在であるのかという議論は、機内にいるときに一番リアリティが有るように思われる。母国から突き出され、外国に向かうも、外国が自分を受け入れるかどうかわからないという不安。文化的な意味においても、入国管理の意味においても訪れうる二重の、あるいはそれ以上の多重の不安。そんな中で、新天地での生活あるいは滞在への希望。自分を知らない環境の中へ身を投じることには、不安と同時に、それ相応の希望が付随する。
自分を知らない相手に対し、自分語り・騙りをしなければならないという必要性に迫られる不安。あるいは積極的な情報の提供による、好ましいセルフイメージを相手に植え付ける事への希望。
こんなことをざっくり考えていて、僕は外国に日本人と一緒に行くことを余好まないのは、この過去制作の困難さに由来すると思う。過去のいくつもの自分が一度に衝突する体験。なにもこれは海外に限ったことではないが、日本人同士の同調圧力が加わる分、現地の文化になじむのも難しくなる気がする。もちろんこのような事情に理解のある同行者であれば良いが、そうでない場合は悲惨かもしれない。
そんな中で、僕の、僕自身のロシアとの関係の中での位置づけはどのようなものなのだろうか。
この問題は、以前から頭の片隅で温めていたものではあるけれど、やはり今ここで答えを出すことは困難だ。ロシアへ渡航するごとに微妙にこの位置づけは変化し続けるだろうし、簡単に言語化して明確な答えを与えるほど、ロシアに関わっていないというのも一つの理由である。
解答することを一時停止したからといって、このことを忘れていることにはならないし、ロシアに真摯に向き合っていないという非難の根拠足り得ないとは思う。
ロシアの地理的中心、シベリアの上空10972mを飛行中のアエロフロート機内より。