3/08/2012

4度目のロシア


 これでロシアにくるのも4回目だ。3年連続4回目。どこかの高校が全国大会に出場した回数を誇るように、僕もロシア行きの回数を自慢するというわけではない。回数で勝負する類いではないのは明らかだから。
 今成田発モスクワ行きの機内でこの文章を書いているのだけど、書こうという押さえきれない意志がわき上がってきたからである。毎回国際線に搭乗すると、なぜか文章を書く事へと駆られる。別に外国に行くということを自慢したい訳ではない。飛行機に乗り、外国との境目に宙ぶらりんになっているときに、僕は必死に自身を整理しようとするらしい。旅に出る前に荷物を鞄に詰めるように、自身の過去の断片をどこかへ詰め込むのだ。たとえそれが急ごしらえのものであろうと、忘れ物をしようと、全然そんなことを気にせずに断片を詰め込み続ける。そして、何らかの形として掃き出したいがために、こうして文字にしているのだ。
 昨年の8月にロシアに来た際も、ちょうど今回と同じように機内で、自分とロシアの関わりを整理した。今自分が向かおうとしている国が自身にとってどういう存在であるのかという議論は、機内にいるときに一番リアリティが有るように思われる。母国から突き出され、外国に向かうも、外国が自分を受け入れるかどうかわからないという不安。文化的な意味においても、入国管理の意味においても訪れうる二重の、あるいはそれ以上の多重の不安。そんな中で、新天地での生活あるいは滞在への希望。自分を知らない環境の中へ身を投じることには、不安と同時に、それ相応の希望が付随する。
 自分を知らない相手に対し、自分語り・騙りをしなければならないという必要性に迫られる不安。あるいは積極的な情報の提供による、好ましいセルフイメージを相手に植え付ける事への希望。
 こんなことをざっくり考えていて、僕は外国に日本人と一緒に行くことを余好まないのは、この過去制作の困難さに由来すると思う。過去のいくつもの自分が一度に衝突する体験。なにもこれは海外に限ったことではないが、日本人同士の同調圧力が加わる分、現地の文化になじむのも難しくなる気がする。もちろんこのような事情に理解のある同行者であれば良いが、そうでない場合は悲惨かもしれない。
 そんな中で、僕の、僕自身のロシアとの関係の中での位置づけはどのようなものなのだろうか。
 この問題は、以前から頭の片隅で温めていたものではあるけれど、やはり今ここで答えを出すことは困難だ。ロシアへ渡航するごとに微妙にこの位置づけは変化し続けるだろうし、簡単に言語化して明確な答えを与えるほど、ロシアに関わっていないというのも一つの理由である。
 解答することを一時停止したからといって、このことを忘れていることにはならないし、ロシアに真摯に向き合っていないという非難の根拠足り得ないとは思う。
 
 ロシアの地理的中心、シベリアの上空10972mを飛行中のアエロフロート機内より。

2/22/2012

眠い

 最近寝れないことが多い。眠くて眠くて仕方が無いのにそれでも寝れないことがある。
 映画や舞台を見ているときに眠気を感じて、これが終わったら寝ようと思ってなんとか眠気をこらえるのだが、終わって、さあ寝ようとすると寝れない。
 意識的に寝ようとするからダメなのだろうか。

 これを書いていれば眠くなるかなと思ったけど、いっこうに眠くならない。
 でも間違いなく一時間前は眠くて眠くて仕方なかったし、きっと朝の9時ぐらいには眠くて眠くてどうしようもないはずだ。

 自分の体なのに自在にコントロールすることができない。あるいは、自分の体だからこそコントロールできないのかもしれないけど。

 Twitterで寝る!とか宣言したところで眠れる訳がないし、困った……

 極めつけはこんな日に限っていいアイデアが浮かぶんだけど、それを記す間もなく寝てしまうんだよ…

2/03/2012

「好き」とはなんだろう

先日のゼミの話を聞いていて、刺激されたので、「好き」ということについて考えてみようと思う。ゼミで重大問題発表会というのを行っていて、このイベントはゼミ生が匿名の形で、自己が直面する重大な問題を発表し、ゼミ生がその問題に付いて、自由にアドバイスをするというものである。

その中で、「好き」という言葉を発することに抵抗を感じるというような悩みを打ち明けた人がいた。ある他者への気持ちは複雑であり、その複雑さを「好き」という二文字に凝縮することに強い抵抗を覚えると言った趣旨であったと記憶している。

この問題は、何も「好き」という言葉だけの問題でもないような気がする。ある料理を食べたときに、その感想を「おいしい」と一言で表現することが孕む問題と同様の問題であるような気がする。料理の味というのは、そもそも言葉で表現するには複雑すぎるし、ある意味において料理を「おいしい」の一言で片付けてしまうのは、その料理の素材や調理によって成される複雑さとハーモニーへの冒涜である感じもする。言語が自己の固有の体験に基づいて形成されるプロトタイプによるものだとすれば、二人の人が全く同じ料理を食べたときに「おいしい」という言葉を発したとしても、その「おいしい」が意味するところは確実に違うだろう。

同じ単語が発せられる状況や発話者の違いにより意味が異なることがこのように自明であるにしても、とりわけ「好き」という単語を発話することへ、特別な抵抗感を感じるのは、やはりその「好き」という言葉のもつ特異性に由来すると思う。

それは「好き」という言葉が使われるのは、必ず相互関係においてであって、Aが「好き」といえば、それに答えるBが必ず存在するのである。コミュニケーションが導管の比喩で説明されるが、Aが「好き」という言葉を発すると、その言葉がBのこれまで言語経験により形成された中での「好き」という言葉として受け取られる。そのときに、Aが「好き」という言葉に託した想いは、Bの解釈とは全くの独立であるので、即座にBが「好き」という全く同じ言葉を返したとしても、A→Bの好意と、B→Aの好意は異なるだろう。しかし、ここで問題なのは、AはBから「好き」といわれたときに、Aの言語経験により形成された「好き」の意味で解釈するため、またBもしかりで、AとBとの間には、些細なあるいは大きなずれが生じるに違いない。このような経験をしたことがあるから、冒頭のような悩みが生じる一因になったのではないかと推測する。

そして「好き」という言葉は、一個人の中でも多義的であるだろう。
  • 「私はケーキが好きだ」
  • 「私は××さん/君が好きだ」
というときに、やはり両者の「好き」の意味は異なるのではないだろうか。
では、これならどうだろうか。
  • 「私は、2月1日13時14分に帝国ホテルのラウンジで食べたオペラが好きだ」
  • 「私は××さん/君が好きだ」
この場合、好意の対象は両方とも唯一無二の存在である。
この問題についての結論は先延ばしにしたい。
今考えるには難しすぎる気がする。

1/01/2012

始まりの日に

新年あけましておめでとうございます。
年始に決意を新たにし、ブログを始めることにしました。
Twitterがもてはやされ、ブログが下火になりつつあるこの時勢にブログを始めようとするのは奇異かもしれない。あるいは、この時勢だからこそ始めるものなのかもしれない。Twitterで書く文は、行く河のように流れていき、後から見返す性質のものではなく、より共時的な性質を持つように思う。一方で、ブログの文章は、北国の地に積もる雪のように静的で、より通時的な性質であるように思う。

かつて始まりと終わりに関する文章を書いたのでそれをここに掲載しておこうと思う。
元日という始まりの日にふさわしいのではないだろうか。


長らく絶版であった「天皇の逝く国で」が復刊したので購入した。真新しい本を開くと、中から読者カードなるものと一緒に、新シリーズ「始まりの本」のパンフレットが出てきた。何気なくパンフレットに目をやると、「始まりとは、〈差異をつくる〉ものだ」と書いてあった。サイードが言った言葉らしい。なんかあたり前のようなことだけど、ちょっとかっこ良く見えた。始まりが差異をつくることならば、終焉も差異を作ることではないのか。始まりは終わりで、終わりは始まりなのだろうか。こんなことを考えながら駒場を歩き、講義を受け、あの日の午後を過ごした。平凡な一日であった。

今までの人生で終焉というものを必要以上に畏怖してきたのかもしれないとふと思うことがある。現在進行形で味わっている快感を失いたくないという欲求が強いのかもしれない。例えば、ラーメンがなくなることがいやで、なるべく長い時間、麺をすすっていたいがために、必要以上の分量を注文し、いつもお腹いっぱいになってしまう。友達と駅のホームで分かれ、最終電車に乗って帰るのを躊躇うこともある。それでも、どんなに抵抗しようとも、ラーメンはなくなるし、僕は最終電車に乗るのだ。きっと、無意識的に、あるいは意識的に、この終焉は、〈本当の終焉〉ではないと信じているのだろう。その〈本当の終焉〉が何かを知らぬままに。そして、終焉を迎えるからこそ、快感を味わえるのだということに無関心でいながら。
もし僕が今日希望を持って生きているとすれば、それは間違いなく明日も僕の人生は終焉を迎えないと信じているからではないか。明日とは言わず、次の1分、1時間で終わらないと信じているからだと思う。なんの恐怖もなく、今日眠りにつくのは、数時間後に目を覚まし、明日を迎えると信じているから。帰納法的に信じているから。どんなに暗黒の時代を生きていようとも、明日がやってくると、必ずやってくると信じることさえできれば、人は生き続けることができるような気がする。もし明日で人類は滅亡すると宣言されたとき、世界は混沌とした世界に一変するだろう。終焉がないと信じるからこそ秩序は保たれるのだろうから。
終焉とは何かよくわからないまま、自分なりの結論を出せないまま、この文章を閉じることは僕にはできない。物事には必ず始まりと終わりがある必然性などないと信じているから。そもそもどれだけの始原と終焉に僕たちは気づくことができるのだろうか。人生だって、気づいたときには始まっていたし、気づくこともなく終わってしまうのだろう。きっと愛とかその他の感情も、誰にも知られずに心の奥底からわき上がり、誰にも気づかれることなく消え去ってしまうのだろう。しかしこれをはかないものだと切り捨ててしまうことはできない。始まりと終わりを直接感じることがないからこそ、その始まり以前と、終わり以後に想いを馳せることに大きな意味を見いだせそうだと思う。