1/01/2012

始まりの日に

新年あけましておめでとうございます。
年始に決意を新たにし、ブログを始めることにしました。
Twitterがもてはやされ、ブログが下火になりつつあるこの時勢にブログを始めようとするのは奇異かもしれない。あるいは、この時勢だからこそ始めるものなのかもしれない。Twitterで書く文は、行く河のように流れていき、後から見返す性質のものではなく、より共時的な性質を持つように思う。一方で、ブログの文章は、北国の地に積もる雪のように静的で、より通時的な性質であるように思う。

かつて始まりと終わりに関する文章を書いたのでそれをここに掲載しておこうと思う。
元日という始まりの日にふさわしいのではないだろうか。


長らく絶版であった「天皇の逝く国で」が復刊したので購入した。真新しい本を開くと、中から読者カードなるものと一緒に、新シリーズ「始まりの本」のパンフレットが出てきた。何気なくパンフレットに目をやると、「始まりとは、〈差異をつくる〉ものだ」と書いてあった。サイードが言った言葉らしい。なんかあたり前のようなことだけど、ちょっとかっこ良く見えた。始まりが差異をつくることならば、終焉も差異を作ることではないのか。始まりは終わりで、終わりは始まりなのだろうか。こんなことを考えながら駒場を歩き、講義を受け、あの日の午後を過ごした。平凡な一日であった。

今までの人生で終焉というものを必要以上に畏怖してきたのかもしれないとふと思うことがある。現在進行形で味わっている快感を失いたくないという欲求が強いのかもしれない。例えば、ラーメンがなくなることがいやで、なるべく長い時間、麺をすすっていたいがために、必要以上の分量を注文し、いつもお腹いっぱいになってしまう。友達と駅のホームで分かれ、最終電車に乗って帰るのを躊躇うこともある。それでも、どんなに抵抗しようとも、ラーメンはなくなるし、僕は最終電車に乗るのだ。きっと、無意識的に、あるいは意識的に、この終焉は、〈本当の終焉〉ではないと信じているのだろう。その〈本当の終焉〉が何かを知らぬままに。そして、終焉を迎えるからこそ、快感を味わえるのだということに無関心でいながら。
もし僕が今日希望を持って生きているとすれば、それは間違いなく明日も僕の人生は終焉を迎えないと信じているからではないか。明日とは言わず、次の1分、1時間で終わらないと信じているからだと思う。なんの恐怖もなく、今日眠りにつくのは、数時間後に目を覚まし、明日を迎えると信じているから。帰納法的に信じているから。どんなに暗黒の時代を生きていようとも、明日がやってくると、必ずやってくると信じることさえできれば、人は生き続けることができるような気がする。もし明日で人類は滅亡すると宣言されたとき、世界は混沌とした世界に一変するだろう。終焉がないと信じるからこそ秩序は保たれるのだろうから。
終焉とは何かよくわからないまま、自分なりの結論を出せないまま、この文章を閉じることは僕にはできない。物事には必ず始まりと終わりがある必然性などないと信じているから。そもそもどれだけの始原と終焉に僕たちは気づくことができるのだろうか。人生だって、気づいたときには始まっていたし、気づくこともなく終わってしまうのだろう。きっと愛とかその他の感情も、誰にも知られずに心の奥底からわき上がり、誰にも気づかれることなく消え去ってしまうのだろう。しかしこれをはかないものだと切り捨ててしまうことはできない。始まりと終わりを直接感じることがないからこそ、その始まり以前と、終わり以後に想いを馳せることに大きな意味を見いだせそうだと思う。

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