2/03/2012

「好き」とはなんだろう

先日のゼミの話を聞いていて、刺激されたので、「好き」ということについて考えてみようと思う。ゼミで重大問題発表会というのを行っていて、このイベントはゼミ生が匿名の形で、自己が直面する重大な問題を発表し、ゼミ生がその問題に付いて、自由にアドバイスをするというものである。

その中で、「好き」という言葉を発することに抵抗を感じるというような悩みを打ち明けた人がいた。ある他者への気持ちは複雑であり、その複雑さを「好き」という二文字に凝縮することに強い抵抗を覚えると言った趣旨であったと記憶している。

この問題は、何も「好き」という言葉だけの問題でもないような気がする。ある料理を食べたときに、その感想を「おいしい」と一言で表現することが孕む問題と同様の問題であるような気がする。料理の味というのは、そもそも言葉で表現するには複雑すぎるし、ある意味において料理を「おいしい」の一言で片付けてしまうのは、その料理の素材や調理によって成される複雑さとハーモニーへの冒涜である感じもする。言語が自己の固有の体験に基づいて形成されるプロトタイプによるものだとすれば、二人の人が全く同じ料理を食べたときに「おいしい」という言葉を発したとしても、その「おいしい」が意味するところは確実に違うだろう。

同じ単語が発せられる状況や発話者の違いにより意味が異なることがこのように自明であるにしても、とりわけ「好き」という単語を発話することへ、特別な抵抗感を感じるのは、やはりその「好き」という言葉のもつ特異性に由来すると思う。

それは「好き」という言葉が使われるのは、必ず相互関係においてであって、Aが「好き」といえば、それに答えるBが必ず存在するのである。コミュニケーションが導管の比喩で説明されるが、Aが「好き」という言葉を発すると、その言葉がBのこれまで言語経験により形成された中での「好き」という言葉として受け取られる。そのときに、Aが「好き」という言葉に託した想いは、Bの解釈とは全くの独立であるので、即座にBが「好き」という全く同じ言葉を返したとしても、A→Bの好意と、B→Aの好意は異なるだろう。しかし、ここで問題なのは、AはBから「好き」といわれたときに、Aの言語経験により形成された「好き」の意味で解釈するため、またBもしかりで、AとBとの間には、些細なあるいは大きなずれが生じるに違いない。このような経験をしたことがあるから、冒頭のような悩みが生じる一因になったのではないかと推測する。

そして「好き」という言葉は、一個人の中でも多義的であるだろう。
  • 「私はケーキが好きだ」
  • 「私は××さん/君が好きだ」
というときに、やはり両者の「好き」の意味は異なるのではないだろうか。
では、これならどうだろうか。
  • 「私は、2月1日13時14分に帝国ホテルのラウンジで食べたオペラが好きだ」
  • 「私は××さん/君が好きだ」
この場合、好意の対象は両方とも唯一無二の存在である。
この問題についての結論は先延ばしにしたい。
今考えるには難しすぎる気がする。

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